コラム-ヨーロッパにおける起業家教育事情-
Tuesday November 13th, 2018
ヨーロッパにおける起業家教育事情
理事長
市川隆治
全体で300ページを超える”Entrepreneurship Education at School in Europe”レポートの表紙
ヨーロッパにおける起業家教育全般については2016年の ”Entrepreneurship Education at School in Europe” レポートに詳しい。全体で300ページを超える大作であり、後半には各国別の報告もある。
同レポートによれば、ヨーロッパで最初に起業家教育の重要性を指摘したのは2003年の “European Green Paper on Entrepreneurship in Europe 36” ということである。シリコンバレーが花開いたのが1980年代ということを考えると意外に遅かったと言えるのではないか。これが教育と起業文化の発展とをリンクさせた最初のEUの政策提言であるという。
エストニアの教育改革については既にコラムで触れたところであるが、このレポートの国別報告においてもエストニアは光っている。「起業家教育は小中高レベルで一般的能力及びカリキュラムをまたがった目標として明示的に国のカリキュラムの中で認識されている。」「国のカリキュラムにおいて、起業家教育の学習成果は次のように定義されている。
・ 小学生レベルでは、例えば、モノを買うにはお金を払う、お金は仕事をして稼ぐということを
理解し、また、他の子と協力するノウハウを学ぶことが期待される。
・ 中学生レベルでは、例えば、異なる教育レベルの人たちの労働市場における機会を理解し、また、
所有者、起業家、雇用主、従業員や失業者となることの意味を知ることが期待される。
・ 高校生レベルでは、例えば、職業選択のひとつとして起業があることを理解し、また、自分たちが
起業家となることが可能であることを理解することが期待される。」
そして、先生に対する教育やサポートも重要ということで、国や関係機関が支援していると報告されている。
日本の小学校でそのような教え方をしているだろうか?日本の高校生が職業選択のひとつとして起業家を考えているだろうか?このように考えると背筋が寒くなる。
スウェーデンではどうだろうか?同レポートでは、スウェーデンにおける起業家教育の学習成果としては、次のようなことを学ぶ機会となるべきであるとしている。
「 ・ 個人、組織、企業及び社会にとって起業が何を意味するかを理解する。
・ アイデアを、プロジェクトをスタートさせるための活動に変える能力を養う。
・ プロジェクトを実施し、ベンチャー企業を運営する能力を養う。
・ プロジェクトやベンチャー企業を完成させ評価する能力を養う。
・ アイデアや製品がどのように法律やその他の規制によって保護されているかを学ぶ。
・ ビジネスメソッドを活用する能力を養う。」
もちろん先生に対する教育は重要であり、資金的支援も含め、国の機関が起業家教育を発展させるべく学校をサポートし、促しているとしている。
さらに大学レベルにおける起業家教育については、特にスウェーデン西部のヨーテボリにあるChalmers School of Entrepreneurshipが有名である。本年10月に名古屋大学で開催されたEDGE-NEXTの東海カンファレンス2018において、同SchoolのMats Lundqvist教授の話を聞く機会を得た。私が「スウェーデンに着任していた約30年前には同国で”entrepreneurship”という単語を聞くことはなかったが」と問いかけると、「それはそのとおりで当時は起業という発想がなかった。自分が教えている”Entrepreneurship”を冠した Schoolも1997年に発足させた」との回答であった。私は1992年にスウェーデンを離任しているので、その5年後ということになる。さらに、スウェーデンの起業家教育の内容は米国流を踏襲したものかと問うと、自分も米国で学んでおり、米国の流儀を基礎にしているが、ニュアンスが少し違うと言う。ヨーロッパの価値観では起業家教育はValue for othersに力点が置かれているが、ここが米国ではValue for myselfに力点があるということだ。日本人の思考回路はヨーロッパに近いと言えるのかも知れない。
このように、特に北欧における小中高レベルの起業家教育は戦略的に実施されていると同レポートは高く評価している。是非日本の現状と比較してみてほしい。
なお、本年10月の同イベントでは同時に米国のバージニア大学のSaras Sarasvathy教授の講演もあったが、そこで面白いエピソードを聞くことができた。所謂「嫁ブロック」についてである。大企業に勤める夫がスピンアウトして起業しようと妻に言ったところ、妻がとんでもないと反対し、夫は先生に相談した。先生は、それでは奥さんを私の授業に連れてきなさいとアドバイスし、奥さんは授業を受けに来るようになった。結果、奥さんの方がentrepreneurshipに熱心になり、彼女がstart-upを設立したと言うのである。
フランスではどうだろうか?在京フランス大使館の書記官からは、フランスのエリート中のエリートを育成するグランゼコールの卒業生たちがベンチャーに目を向け始めたと聞いたし、グランゼコールの授業にentrepreneurshipが取り上げられるようになったという話も聞いた。”entrepreneur” は元々フランス語であり、先祖帰りとも言うべきかも知れない。
そこでグランゼコールのひとつ、パリ政治学院(Sciences Po)のホームページを覗いてみると、
”l’entrepreneuriat” とか ”l’incubateur” とかのフランス語の文字が躍っていた。さらに細かく見ていくと、全体がフランス語の中に ”lean start-up” とか ”design thinking” とかの英語がそのまま使われている。前者については、GTEで米国人の先生が教えているこの世界では定番の理論であり、後者も英米では最近もてはやされている考え方である。パリ政治学院でも米国流の教え方を取り入れているのである。そういえば、Station F でも公用語は英語と聞いた。日本在住のフランス人に聞くと、start-up の世界でことばが英語になるのはしかたないが、少し残念だと吐露していた。
もっとも、英国とフランスは地理的にもお隣で、歴史上もブルターニュ公国を取ったり取られたりの関係がある。”beef steak” を語源とする ”bifteck” はフランス語の辞書にも載っていて、その歴史の名残であると聞いたし、最近では単語の短さから駐車場をそもそものフランス語である “parc de stationnement” というより “parking” と英語を使ったりもする。逆に “~ment” という英単語はだいたいフランス語から来ていると聞いた。
本年10月11日にStation FによるSchience Poの学生に対する説明会があった。そこで本人もSchience Poの卒業生であるLa directrice de Station FのRoxanne Varza女史は、米国での経験を振り返り、「カリフォルニアでは飽和状態になりつつあるとの感じを持った。フランスに帰ってみると、この分野はまだ新しく、すべてが構築途上であり、自分が影響を及ぼす余地があると感じた。フランスのエコシステムは様々な挑戦に直面するが、それが自分にとって魅力と感じた。米国ではいささか粗野な文化が支配的であるが、フランスでは健全さを感じた。2009年にフランスに帰ったときには大学で起業家教育のプログラムはほとんどなかったし、インキュベーターを有している大学も限定的であった。今やそれらはすべての大学に備わっている!すばらしいことだ。」と述べている。
理系のグランゼコール、Ecole Polytechniqueについては、ホームページで「2017 Rapport Annuel」(2017年年次報告書)を読むことができる。その冒頭の「当校の3本柱」のところでは、研究、教育の次に「L’Entrepreneuriat」(Entrepreneurship) が掲げられている。そのページを要約すれば次のとおりとなる。
「Ecole Polytechnique は、アクセラレーター及びインキュベーターを活用し、健康、安全及び経済分野におけるテクノロジーのあるプロジェクトを支援している。当校のスタートアップは国際的にも注目を集めている。また、当校はスタートアップと産業界の結びつきを強化するために「club des industriels」(Corporate Club)を立ち上げた。」
Ecole Polytechnique2017年年次報告書の表紙
そして、具体的な成果として次のような数値を掲載している。
・ 2010年以来250社以上のスタートアップが創設された。そのうち36社は当校キャンパスに設立され
ている。
・ 2017年に18社のスタートアップがアクセラレーターを活用した。
・ 2017年に22社のスタートアップがインキュベーターを活用した。
・ 200人以上の雇用創造が生まれた。
・ 過去10年間で当校学生により創設されたスタートアップの評価額は2億5千万ユーロ(約325億円)
にのぼる。
・ 2017年に当校のスタートアップは5千7百万ユーロ(約74億円)の資金調達をした。
・ 「club des industriels」(Corporate Club)に6社の企業がパートナーとして参加した。
このような状況がかつてのフランスの状況から想像できるだろうか?Ecole Polytechniqueといえば、ジスカール・デスタンをはじめとして3人の大統領を輩出し、ノーベル賞受賞者、それに大銀行や大企業の幹部を約束されるエリート校の中のエリート校である。カルロス・ゴーン氏も卒業生である。その学生たちが今やベンチャーに目を向け出したということである。そして既存の企業も「club des industriels」(Corporate Club)に参加することでその後押しをしている。
EDHEC(フランス北部のリール市にある経営学グランゼコール)については、2016年6月24日付のLe Figaro Etudiant紙の次のような報道があった。
2016年5月に経営学グランゼコール入学準備クラスの2,930人の学生に「何を夢見るか?」とのアンケートを実施したところ、フランスの大企業でサラリーマンとして働くのではなく、国際的、もしくは人間的な規模の企業で起業家となることを夢見ているとの回答であった。2014年のアンケートでは創業者もしくはフリーランスとなりたいという学生は22%に過ぎなかったが、今回の2016年調査ではそれが36%になった。アンケートを実施したNewGen Talent Centre de l’EDHECの先生は、「これは重要なことである。学生たちが夢見ているのは企業との間の無期雇用契約ではなくなっているということだ。」と述べている。
実際、EDHECに私からメールで質問表を投げてみると、「同校では既に2009年から起業家教育を始めており、今年は18か国から78人の学生がEntrepreneurship & Innovationクラスに参加している。学習内容は国際水準に照らして最高のものである。4年生に特別コースがあるが、その学生の25%が起業している。また、フランスにおいては、高校段階での起業家教育も盛んになってきている。」との回答が寄せられた。
ヨーロッパにおける起業家教育の現状は日本にとって大変参考になろう。米国の周回遅れで、米国のやり方を導入しながら起業家教育を始めているが、日本より半歩進んでいるように思える。米国の流儀をそのまま受け入れているようで、ニュアンスが少し違うと言う。自分が儲けるということより、社会を変えるという意識が米国より高いということではなかろうか。この方が日本人の感性には近いような気がする。