第75回「内部被曝⑫ 30年後も体内被曝年15ミリシーベルト-疑問なビキニの世界遺産登録」
2011年11月18日
2010年、ユネスコはマーシャル諸島共和国にあるビキニ環礁を世界遺産(文化遺産)として登録した。核実験の威力を伝える証拠の地というが、この負の世界遺産の指定については各界から異論が多い。
ビキニ環礁とはどんな所か。ここは1945年3月1日、コードネーム「ブラボー」の名のもとで行われた米国による史上最大15メガトンの水爆実験で有名だ。この実験によって海底に直径2km、深さ73mのクレーターができ、ふっ飛んだサンゴ礁の細粉が、放射能を帯びた“死の灰”となって周辺に雨のように降り注いだ。
ビキニから160km離れた海域で操業していたわが国のマグロ漁船「第5福竜丸」が死の灰を浴び、乗組員1人があとで死亡する事態となった。この時、死の灰を浴びた船舶は1000隻にのぼったという。
ビキニより240km東にあるロンゲラップ島でも死の灰が降り積もった。この島は1946年、マーシャル諸島を核実験場と決めた米国が、ビキニの住民を強制移住させていた所でもある。マーシャル諸島では1940年から58年にかけて67回もの核実験が行われた。最初の実験は、わが国の戦艦「長門」など71隻の艦船を標的とした1946年7月のクロスロード作戦であった。
水爆による死の灰を浴び被曝した住民はロンゲラップ島で64人といい、火傷、脱毛、それに甲状腺異常と多彩な障害に苦しめられた。1985年ロンゲラップの住民は全員島を去ることになる。その後表土の削除作業が進められており、近く住民は島に帰れそうだという。
30年たった1997年、ロンゲラップ島を調査したIAEAによると、島に定住し、島で育てた作物を常食とした場合、食事からだけで年間15ミリシーベルトという膨大な量の内部被曝が予想され、住民の帰島は見送られた。
ビキニ環礁については、いかなる理由からなのか1968年に安全宣言が出された。しかし、環礁の放射線量は場所によって極めて高く、1978年、再び島への立ち入りは禁止された。表土のはぎ取りなど除染は続けられているが、住民が島に帰れる目途はまったく立っていない。
ビキニより200km西のエニウェトック島でも核実験跡の穴が列をなして残っており、除染目的など削除された表土でこの穴を埋め、表面をコンクリートで覆う作業が続いている。
エニウェトックでは1980年代、33年ぶりに住民の住居が認められている。このような穴埋めはロンゲラップ島でも使われ、ルニックドームと呼ばれているという。
マーシャル諸島は29のサンゴ礁と5つの島より成り、住民は6万人あまり。ここで1946年から12年間に通常原爆を中心に67回の核実験が行われた。現在破壊されたサンゴ礁の80%は回復したというが、28種のサンゴが全滅したという。
この核実験の象徴であるビキニ環礁が1910年、世界遺産となった。登録の基準である「人類歴史上重要な時代を例証する建造物、景観など」に該当するとされるが、戦争という人類の深い係わりの中で登録が認められた広島の原爆ドーム(1996年)と異なり、ビキニ環礁は米国の水爆実験の跡地にしか過ぎないという点で性格は大きく異なる。大国の威力誇示と残留放射能の恐ろしさがなぜ文化遺産なのかという疑問を呈する人は少なくない。
(多摩大学名誉教授 那野比古)